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クレーム千夜一夜<第10夜 相手を認めるということ>
先月下旬に、九州にあるS市を訪問した。時間に余裕があったので駅の近くにあるS公園に行ってみると、陽気のせいか家族連れやお年寄りの姿が見えた。さらにその奥には米軍のエリアがあり、大きな野球場が見える。入口に行ってみると日本人でも入れると看板にあった。大きな野球場やサッカー場が見える。興味があったので中に入ると、大きな野球場、サッカー場等々、スポーツ施設とその付帯施設がある。ゆっくりと散歩していると右手に小さな喫茶店風な建物があり、玄関には日本語表記で「日本人大歓迎」とあったので安心して扉を開けて入ってみた。右手にテーブルが4つほど設置されていて、こじんまりした喫茶店だった。
アメリカ人らしい男性と日本人風の女性がすぐそばのテーブルにいたが他には誰もいない。その女性が店のスタッフだと思った私はその女性に「コーヒーを頼みたいのですが・・・」と日本語で伝えた。すると女性ではなくアメリカ人男性が「あ、そうだったらそこにスタッフがいるからそちらに言うといいですよ」と流暢な日本語で親切に教えてくれた。まったく気づかなかったのだが、入口の左手は厨房というか飲食を提供するスペースがあった。そのスペースと客席との境には幅30センチくらいのカウンターがあり、その上に両腕を組んで顔をうつ伏せて寝ていたスタッフがいたことに初めて気づいた。「すみません・・・」日本語で声をかけるとやわら起きてこちらを向いた。18歳くらいの美人な女性スタッフだ。高校生のアルバイトかな?どきどきしながらその美人女性スタッフに「コーヒーをください」と日本語で伝えると、「?」のような顔をしている。もう一度日本語で「コーヒーをください。」と言うと、英語で何かしゃべりだした。今度はこちらが「?」という顔をしていると、先ほどの親切なアメリカ人男性が「どんなコーヒーが良いか、と言っているんだよ」と通訳をしてくれた。「ブレンド、ブラックでお願いします」と相変わらず日本語で返した。今度は通じたのか、女性スタッフはコーヒーマシンのカセットを入れ替えて、ホットコーヒーをつくり、紙カップに入ったコーヒーをカウンターの上に置いた。代金を支払い、コーヒーを受け取った私は飲む水がないことに気づき「お水はありますか?」と尋ねた。「Can I have a glass of watter ?」くらいの英語はしゃべれるつもりだけれど、続けて日本語で伝えた。女性スタッフは相変わらず「?」という顔をしている。「水、ウォーラー」と今度は英語風?の発音で言ってみた。すると冷蔵庫からペットボトルの水を示して「これ?」というような顔をしている。「ノー、ノー、ウォーラー」と再度言うと、やっと分かったらしく、今度は「フン!」とばかり、右手を自分の胸の前でクロスして左方向に指差しをしたのだ。女性スタッフの名誉のために正確に言うけれど、「フン!」などとは言ってはいない。しかし、表情に笑顔もなく、迷惑そうな?硬い表情で指差しをしたので、私の耳には「フン!」と聞こえたのかもしれない。私はその女性スタッフの動作がよく分からずに右手の指す方向に4メートルくらい歩いてみると、ペダルを踏むと水が出る「ウォーターマシン」が廊下の隅に置いてあるのに気が付いた。なるほど、「お水を・・・」と伝えたのでこれを教えてくれたんだ。
これ以上の会話が望めないとあきらめた私は、カウンターからカップ入りのコーヒーを受取り、テーブルに着きコーヒーを飲みながら今の短い時間でのやり取りを振り返ってみた。
確かに米軍の施設であり、米軍関係者が主に利用するから無理ないのだろう。それにしても親切に「日本人大歓迎」と書いてあるのだから、スタッフは簡単な日本語くらいできないといけないのでは?しかも、日本人には考えられないこととして、営業時間中にお客様が店内にいるにもかかわらず、スタッフがカウンターにうつ伏せて寝てて良いの?もう少し笑顔で接することの重要性を教えても良いのでは?次々と疑問が噴出してきた。
それにしても国によって、時代によって、年代によって、文化の違いや考え方の違い、習慣・風習の違いがこれほどあることにあらためて驚いたこの日だった。日本で仕事をしているんだから、もっと日本に合わせろよ、と考えながらその店で30分くらいゆっくり時間を過ごした私だった。
仕事を終えて、帰りの飛行機の中であらためて米軍施設の喫茶店の出来事を思い出した。文化の違い、常識の違い、様々な違いはこの世には「やま」とある。どちらが正しいわけでもないし、不合理なことであるわけでもない。みな、それぞれ様々な歴史と経験を踏まえて今の文化や常識が成り立ってきたことに「ふと」気がついた。そういう相手の成り立ちや経緯を私が知らないだけなのだ。私が相手方の環境で育てば同じような言動をすることになるだろうし何ら疑問を感じないはずだ。だから、こちらのサイドに立って、その違いに「いちいち」目くじらを立てて相手を非難することよりも、相手の文化を認めてコミュニケーションをとることの方が素直に通じ合えるのかもしれない。
通じ合うためには、「残念ながら今の私の気持ちとしては、あなたの文化をそのままでは受け容れられることはできません。しかし、あなたはその文化で育ち、その文化を継承してきているわけだから、その文化を正しいと感じて表現することには何ら問題があるわけではなく、それはそれで私は認めないといけない。」「あなたが変えた方がよいと感じたら自分で変えればよいことなので、非難中傷することはお互いの意思疎通を図ることにはまったく役立たないだろう。」相手の文化の存在を私が認める気持ちを持つことの重要性を感じた飛行機の中だった。
クレーム対応の考え方も同じ。世の中にはいろいろな人がいる。その人はその人の環境で育って今があるので、今「文句」を言っている人に対して「なんて常識のない人だ」とこちらが勝手に決め付けて非難する必要はないのだろう。そのような気持ちで応対したらそのことを相手はすぐに感じてしまう。応対者として「私はあなたの考え方には賛成しないけど、あなたが感じてそのことであなたが不満に思っていることについては認めますよ」という考え方・姿勢ができるかどうかがクレーム対応では必要になってくる。
応対者の度量の広さ、心の大きさが求められる。